スペシャルインタビュー「働くということ」


デザイナー
ユミ・シャロー
笹川祐子

日本レディスファッション界の巨匠、ユミ・シャロー様。大人のエレガンスに裏打ちされたデザインは、本物のお洒落がわかる女性達の強い支持を集めている。フランスを生活の拠点にしながら、海外(50カ国以上)を旅する国際派である。ユミ・シャロー様にとって働くとはどういうことなのか本音に迫りました。

 デザイナーユミ・シャロー

ユミ・シャロー(旧姓 高木弓)

東京・麻布生まれ。
雙葉学園、女子美術大学出身。
セツ・モードセミナーで学ぶ。ファッション・イラスト、子供服のデザイン、手芸等の仕事に携わり、多くの雑誌にて活躍。
1967年に渡仏。パリで上記の仕事の他、ジャーナリスト、TVレポーター、スタイリスト等を経て、1985年レディーストータルブランド『カランドリエ』(東京ブラウス)を起ち上げる。1996年より、ジュエリー・メーカー・ブランド『VdeB』のアクセサリー、小物を手掛ける。パリ在住45年。この間、50ヶ国をフランス人の夫と共に旅し、油絵を再び描き始める。2010年秋、表参道ギャラリー80にて、油絵・テンペラ画・イラスト・創作アクセサリーの個展を催す。
著書に『粋なおしゃれ』(じゃこめてい出版、1990年)、訳書に『ラ・コレクション』(マガジンハウス、1990年、ソニア・リキエル著)など。

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笹川 今日は、デザイナーであるユミさんがこれまでどのように働いてこられたのか、とても興味深く、楽しみに参りました。ユミさんは幼少時代、どんなお子さんでしたか。
ユミ・シャローさん 自立心が旺盛な子供でしたね。ひとつには反面教師とでもいうのか、海軍にいた叔父が、帰国後、自宅にこもりきりの生活だったんですね。戦火のなかでかなりむごいものを見たのでしょう。ただ、そんな叔父を見て「人は働かなくてはいけない」と子供心に感じまして。『お化け大会』を企画してはチケットを近所の人に売ってみたりね。お金を稼ぐということに対してはアイデアいっぱいの子供でしたね(笑)
笹川 自然と商いのアイデアが!? 幼稚園から高校まで雙葉学園、お嬢様学校なのに!?
ユミ・シャローさん ええ(笑)とにかく恵まれた環境のなかで、思春期を過ごしました。子供の頃から油絵を習っていたので、雙葉学園から女子美術大学の油絵科に進学。ところが、ある日、『日展』を観に行ったら「私はとても絵では稼げない。食べて行くことはできないな」と思ってしまって。
笹川 見極めがすごいですね。
ユミ・シャローさん 当時、女子美の油絵科はバンカラなイメージが強くて、重厚感ある作品を描くことが良し、という風潮。オシャレなことが大好きな私はそんな風潮にも馴染めなくて。
笹川 『セツ・モードセミナー』に入校なさったのがその頃ですか。
ユミ・シャローさん ええ。転科が認められなくてどうしよう、と思っていたとき、長沢節さんのイラストを雑誌か何かで見て。師事したい、と思いました。そうしたら、ちょうど大学の近くで開校になったので。昼は女子美、夜は『セツ・モードセミナー』に通う日々が3年続きました。
笹川 お仕事はいつから?
ユミ・シャローさん その頃から、長沢節先生にご紹介頂いた雑誌社から、画の依頼がどんどん入ってくるようになりまして。
笹川 当時、ユミさんは21歳ぐらいですか。
ユミ・シャローさん そうですね。画を書くことが仕事に。寝ずに描き続けましたね。
笹川 今でいうフリーランスのファッション・イラストレーターでしょうか。この頃からファッションの雑誌で描いていらっしゃったんですか。
ユミ・シャローさん 一番最初は『服装』という雑誌ですね。この雑誌は、先生方の作品(洋服)の写真と一緒に「前向き」「うしろ向き」と洋服の出来上がりを描いたイラストを掲載していて、当時「作り方の図」と言っていましたが、そのイラストを描いていました。夕方に編集部に行き、その日の取材で撮影してきた写真をもらって家に帰ってきて、徹夜でイラストを描いてましたね。
笹川 そんな徹夜仕事にお父様やお母様は反対なさらなかったんですか。
ユミ・シャローさん ええ。反対するどころか、母はイラストの鉛筆跡をきれいに消しゴムをかけてくれたりして、とても協力的でしたね。
笹川 「女の子が仕事なんて!」という時代背景のなかでご両親が協力的だったことは素晴らしいことですね。
ユミ・シャローさん 私が産まれた家には、7~8人のお手伝いさんに運転手、庭師と居りまして、母はいわゆる玉の輿でお嫁に来たわけですけど、働くことが好きな人でしたから。
笹川 寝ずにお仕事をされていたのは何歳ぐらいまで続いたんですか。
ユミ・シャローさん いつまででしたでしょうか。そうこうしているうちに、マガジンハウスの雑誌『週刊平凡』『デラックス・パンチ』『アンアン』などのファッションページのお仕事が入り始めて。花井幸子さん、金子功さんたちとお仕事させて頂いて、企画から記事作成まで好きなように作らせて頂いて。ページに対しての反響も大きく楽しかったですね。
笹川 デザイナーになるきっかけは?
ユミ・シャローさん 当時、私は美大出身ではあるけれども、洋裁学校は出ていなかったので実はコンプレックスがありました。そんなとき、昔働いていたお手伝いさんが戻ってきて、オーダーメイドの洋服を作り始めて。横で眺めているうちに私も見よう見まねで縫い始めた。今思えばデザイナーへの道の始まりでしたね。
笹川 その後、制作された洋服はどのように発表を?
ユミ・シャローさん 既製服があまりなかった当時ですから、雑誌へはデザインと出来上がった服を渡せば、それを写真に撮り、掲載される、という流れだったので。母もとても器用な人だったので、『ミセス』などに掲載するニット作品などは良く手伝ってくれましたよ。後に編み物の先生のようになってましたね(笑)
笹川 ユミさんの器用なところはお母様譲りなんですね。
ユミ・シャローさん ええ。ただ、父も慈恵医大の3代目(曽祖父・慈恵医大創立者、祖父・学長、病院長を務めていた)、本当は医師にならなくてはいけなかったのでしょうけど、有島家の血をひいたのでしょう。建築の道に進みましたから。
笹川 ユミさんの祖母・志摩子さんは、実業家・有島武氏の次女でいらっしゃいますね。お兄さんは有島武郎氏。有島家の方々はみなさんヨーロッパ通でいらっしゃったそうですね。ユミさんの芸術的な感性は有島家にも由来するのでしょうか。
ユミ・シャローさん そうですね。家族からは本当に刺激を受けたというか。叔母も昔でいうモガ(モダンガール)でしたし、祖母をはじめ粋な人たちに囲まれていましたから。

働くということ
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笹川 ユミさんにとって働くということはどういうことですか。
ユミ・シャローさん 自由に生きるためには、経済的に自立しなければいけない。長沢節先生が「男でも女でも人は経済的にも生活においても自立して生きていないといけない。大体、日本語の‘人’という字がいけないね。寄りかかっている。人は寄りかかってはいけないんだ」とよく仰っていました。私は自由でいたいし、少し不良でいたい。そのために働く。それに、一生懸命働いていれば少々辛いことがあっても、喜びも大きいですよね。生き生きとして生きたい。
笹川 売れっ子ファッション・イラストレーターから、ファッション・デザイナーになられたわけですけど、一番のヒットと言えるのは……
ユミ・シャローさん ニットですね!
笹川 それがパリへの武者修行の軍資金となった!
ユミ・シャローさん そうですね(笑)長沢節先生のヨーロッパ旅行にご一緒したことがあって、そのとき「私はパリが合っている」と。
笹川 その後、パリに渡られ、ケンゾーさんたちとご活躍されるんですね。
ユミ・シャローさん ええ。25歳でした。貯めた200万を持って、行きました。
笹川 当時の200万は今で言うと……20代の女性が持てるようなお金じゃないですよね!
ユミ・シャローさん でも、すぐに無くなっちゃいましたよ。あっという間(笑)だから雑誌『ELLE』に売込みに行きました。それをきっかけにアパレルメーカーからの依頼でデザインをするようになって。もともと子供服は得意だったので、子供服のデザインはずいぶんとやりましたね。
笹川 たくましいですね。見知らぬ土地で稼いで生計を立ててたわけですよね。
ユミ・シャローさん 周りはお嬢様の留学だと思っていたでしょうけど。
笹川 実は自分で生計を立てて頑張っていた、と。画(デザイン)を売ったり、イラストを描いたり。
ユミ・シャローさん ええ(笑)父はよく手紙をくれるんですけど、一回も「お金に困っていないか」とは聞いてくれないんですよね。私がお金に困ることなど想像もしなかったようで。こっちも意地だから、一切言わなかったですけどね(笑)一度、『クリスチャンディオール』からお声がかかりアシスタントデザイナーに受かりましたが、ケンゾーさんとの仕事の方がギャランティが高かったこともあり、お断りしました。
笹川 『クリスチャンディオール』をお断りするなんて!
ユミ・シャローさん なんだか怖そうでしたし、ね(笑)でも、当時ケンゾーさんとのお仕事がとっても楽しかったし。

仕事のやりがい
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ユミ・シャローさん 私は本当にお友達に恵まれてまして。ケンゾーさんをはじめ、お仕事を通して、多くのお友達ができました。両親ふくめ家族にきちんと愛されて育てられたという自信も大きかったと思います。行儀作法は父によるイギリス仕込みですから、どこに行っても大丈夫、と。人に対してコンプレックスを感じる必要がなかったから、誰とでもお友達になれる。そのことは本当に家族に感謝しています。
笹川 そんななかでフランス人のご主人と出会うわけですよね。
ユミ・シャローさん ええ。パリでの修行当時、私、全然モテなくて。パリの人には子供に見られていたんでしょうね。そろそろ帰国しようかな、というときに、九死に一生を得る事故に合い、それがきっかけで主人と結婚することになりました。
笹川 ご両親は国際結婚に反対されませんでしたか。
ユミ・シャローさん 全然。私が幸せであればなんでも良い、と。全く反対されませんでしたね。曾祖父の代からイギリス通でしたし、誰も慌てず騒がず。
笹川 それからもお仕事は続けられたんですよね。
ユミ・シャローさん 『アンアン』や『エルジャポン』から、イラストルポライターのほかに、コーディネーターやレポーターのお仕事を頂いて、ヨーロッパ各地を駆け巡ってましたね。そんな風でしたから、お金を得ること=自由でいること は結婚してからも変わらなくて。お金を得ているからこそ、好きな買い物もできるし。もちろん買い物はデザイナーとして必要なことでもあるんですけどね。働いているからこそ、出来たというところがありますよね。
笹川 結婚してからも生き生きと。
ユミ・シャローさん そう!私、自分も生き生きと生きていたいのですが、私のデザインしたものを手にとってくれる方たちにも生き生きとして頂きたい。「このお洋服きれいよね」って目を輝かせてもらいたい。だから、お洋服や小物を作っています、というとなんだか気恥ずかしいけれど、言葉で表現するとするならば、結局そういうこと。そんな気持ちも仕事へのやりがいのひとつなのでしょうね。

若い方々へのメッセージを
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笹川 若い方たちへのメッセージをお願いします。
ユミ・シャローさん 自分の好きなことを探すこと。大工さんでも、カフェのボーイさんでも好きなことをやっていらっしゃる方は、みなさん、自分に誇りを持っていらっしゃる。自分が人より秀でているものは何なのかを探してみて欲しい。ただ、今の若い方はこんなに物が溢れているなかで、自分に必要なものを、情報をチョイスをしていくことはとても大変なことだと思います。かなりしっかりしていないと見つけられない。

ですが、ぜひ‘こうなりたい’という自分をイメージして、見つけ、なりたい自分になってもらいたいと思います。なんにでも興味を持ってね。電車のなかでも、携帯電話を見つめるだけでなく、人や自然を観察したりしてみて欲しい。人を見る眼を養うとチョイスできる眼もできますよね。

日本は人が優しくって、食べ物が美味しくって、そして素晴らしい自然にあふれているところ。
自然を大事に、日本人としての礼儀正しさを保って欲しいですね。

インタビューを終えて笹川より

ユミさん パリから帰国して、個展前のお忙しい中、素敵なお話をありがとうございました!

お嬢様なのに、「稼がなきゃ」「モノ創りの中毒なの」という言葉が、チャーミングなお姿と対照的で心に残りました。

パリに永く住まれた方だからこその「日本は素晴らしい国。日本人としての礼儀正しさを保ってほしい」とのメッセージ、しかと、承りました。

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